政治とぼく

僕たち日本人は、日本という「国家権力」に支配されている国民です。

…って言うとなんだか恐怖支配でもされてるかのように聞こえますね。すんまへん、言葉のアヤですワ。僕が言いたかったのは単純に、国民ってのは政治によって生活が保障されてるよね、ってことです。

政治にモノを申しても檻に入れられることはないし、国民なら誰でも自ら政治の舵を取る側に名乗り出ることもできます。極めて平和で民主的なアレです。

とかなんとか言ってますが、僕は政治野郎でも言論野郎でもありません。

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僕は政治に興味が無い

まぁ偉そうに言えたことではないですが、僕は政治に全く興味がありません。子供の頃に僕が感じたのは、なんかよくわからんけどA党とB党が争ってて、どっちが勝った負けたでわちゃわちゃやってるだけというモノでした。

政党

大人になってからは、さすがにそこまで無意味なモノだとは思わなくなりましたが、それでもまぁ、基本的には同じことかなぁと。どこの党が何を言ったかで多少政治が変わることはあっても、この日本という国が劇的に変わることは無いだろうし、まぁ大体自分は幸せに生活できてるんだから、いいじゃない、ソレで。

そんなことよりも僕は今日の晩御飯のことが気になるし、3日前に何かの拍子で捻ってしまった左肩の痛みが気になるし、茶柱が立ったことに喜びをおぼえたい。そんな生き方でありたい。

国家と自分は、対等な契約関係

モノの販売でも飲食店でも何らかのサービスでも、お金を払って何かを買う時は、客と店は対等な契約関係ですよね。客はお金を払い、店は価値を提供する。両者の合意によって売買契約が成立するわけです。嫌なら買わなければいいだけの話。

客は金を払っている側だから偉い、なんてことはありません。合意によって金と価値を交換しているだけ。たまに客を騙すようなウソの広告によって不当な商品を買わせる店もありますが、そういう場合は司法の判断に委ねる権利が客側にはあります。

店と客の契約関係

僕は、国家と国民との関係もそれに似たようなものだと考えています。国民は税金を払い、その対価として、行政サービスや福祉サービスや治安などを得る。

「税金は拒否できないし自分で金額も決められないんだから、店でモノを買うのとは根本的に違う」と言われるかもしれません。しかし、この地球に住む我々地球人は、自分の生まれた国が嫌なら、外国に移住することもできます。どの国に住んでもそれなりに税金は取られるでしょうが、少なくとも我々は自分で選択する自由があるのです、どの国家と契約関係を結ぶかを。

国家と国民の契約関係

それでも我々は日本に住んでいる。ぶつぶつ国に文句を言いながら、外国に移住する自由があるにも関わらず、この国に留まり続けている。それは何故か?

多くの一般庶民(特に日本人)にとって、外国に移住するというのはそう簡単なことではありません。異なる文化、異なる食生活、異なる言語が飛び交う中で、今までの人間関係のほとんどを断ち切って外国に移住するというのは、とてつもなく高いハードルです。

逆に言えば、そのハードルを「高い」と感じないグローバルな考え方を持った層は、ぶつぶつ文句を言う前にもう行動を起こしています。「日本よりフランスのほうが住みやすいから、今フランスに住んでます」ってな感じで。

それができない一般庶民の我々は、その時点で「日本という国にお世話になっている」んです。多少の不満はあるかもしれないけど、外国に移住するという精神的・経済的ハードルの高い選択を採らずとも、十分な生活ができるようにしてくれている。世界を飛び回ることができない僕たちは、その状況を暗黙のうちに受け入れているのです。

会社と雇用の関係も似たようなモノだと僕は考えています。会社は社員を選ぶ権利があるし、社員も会社を選ぶ権利がある。会社が嫌なら会社をヤメればいいだけのこと。まぁ、なかなかそう簡単な話ではないのですが、会社をヤメて自分が困るようなのであれば、それはつまりその時点で「会社にお世話になっている」ということです。

決められた労働環境や給料というのは、絶対に従わなければならないものではありません。また、会社が偉いわけでもなければ、社員が偉いというものでもありません。いついかなるときも、対等な契約。ただそれだけのことです。

一票で国を変える力

では、我々国民は、国が勝手に決めた額の税金を文句も言わず払い、国が決める政策には一切反論せずに奴隷のように従わなければならないのでしょうか?

もちろん、そんなわけはありません。知っての通り、我々国民は選挙によって国に「モノ申す」ことができます。それでも足りないと思えば、自ら政治に参加するという被選挙権も有しています。

だから僕たちは、国や政党に不満があったとき、こう強く言えるわけです。「もうお前らには投票しねぇぞ!」と。

しかしどうでしょう、自分の一票で国を変えることなんてできるのでしょうか。選挙というのは結局のところ、議員の地元基盤の力だったり、数千万の人間の心を容易に操ることができるマスコミの力などによって決まってしまっているという残念な事実があります。

そんな強大な力に対して「もう投票しねぇぞ? 怖いだろ? だったら俺の言うことを聞けや!」と息巻いたところで、全く対等な交渉になっていません。

とはいえ、SNSが普及した現代だと、自分が政治に対して声をあげることで賛同者をたくさん集め、その声がより大きなうねりとなり、選挙の結果を変えてしまうほどに世論に影響を与えることもできます。

そのような活動に心血を注がれる方は、本当に立派な方だと思います。しかし、僕を含め多くの国民は、そのような活動をするだけの時間も経済力もありません。「一票の力」が国を変えると言いますが、ほとんどの人は「一票の力しか」無いのです。

ならば無抵抗でいろ、と言ってるわけではありません。自分にはそれだけの力しか無いことを知り、国と対等に交渉する力など無いことを知り、それでもその小さな力を粛々と投票箱に投じればいいのではないでしょうか。

本当に国を変えたいという気持ちがあるなら、それだけの発言力を持つことができるように自分自身が成長し、自分の力を大きくも小さくも見積もらずに「発言力」という武器で間接的に国との交渉を展開していくことができれば、それはもう、単なる「対等でもないのに息巻いてるだけ」という滑稽な姿ではありません。その域を十分に脱した立派な発言者となっていることでしょう。

ぼくの主張と、国民のための主張

「国民の生活を変えるためには」「日本の中小企業を救うためには」「富裕層と貧困層の格差が」「日本のGDPが」「デフレ脱却のために」「雇用の不安定さと最低賃金の問題を解決すべき」…。

SNSを眺めていると、いろんな政治的主張が見受けられます。僕は実は、このような主張をしたことは一度もありません。

これらは全て、「日本という国が」「日本国民が」「労働者が」という、主語の広い主張です。国家という巨大で複雑な組織の中には、1億人以上の世代も地域も経済力も立場も違う国民が居て、数えきれないほどの制度や法律があり、「ここをこうすれば何かが全て解決する」というアイデアが簡単に見つかるようなものではありません。

特に僕はその種の政治や経済に関する学問に疎いので、何をどうしたらいいか、なんて答を導き出せるはずがありません。だから、そんな主語の広い主張は、できるはずがないのです。「よくわからないけど、僕の稚拙な頭で考えたら、こう思うかなぁ」くらいは言うことはあっても。

どんな政策があれば少なくとも自分にとって有益になるかというのは、稚拙な僕の頭でもわかります。決して富裕層でない僕にとってはもっと税金は減らして欲しいと思うし、コロナ禍でも比較的影響の少ない僕にとっては経済の停滞よりも医療の崩壊を阻止した方がいいんじゃないかとも思う。

でも、政治には優先度というものがあります。雇用か、経済か、医療か、防衛か、etc…。 自分にとっては有益な政策であっても、その代わりにどこかの誰かが困っているかもしれない。逆に、自分にとって苦しい政策であっても、どこかの誰かは自分の代わりに幸せになっているかもしれない。

わかんないんですよ、そんな大きな話は。

わからないから主張をしないというわけではありません。わからないから、「『少なくとも僕は』こうしたほうがいいんじゃないかなぁ」ということを、場末の酒場でビール片手に語っているわけです。決して「これこそが日本国民全員が幸せになるための主張だ!」なんて大それた勘違いはせずに。

僕が唯一信じる考え方

先にも書いた通り、僕は別に何党だとか保守だとかリベラルだとか左とか右とか、そういう考え方はありません。「中道」や「無党派層」とも違います。完全な「無」です。

いや、一つだけ僕が信じる考え方があります。それは、「科学と論理」

僕が政治を考えるには、あまりにも勉強不足で、政治の知識が足りていません。ハッキリと「こうだ」と思える政治思想など持っていません。場末の酒場で愚痴を言う程度の「感想」は持っていたとしても、SNSで偉そうに思想と主張を展開するようなモノは何も持ち合わせていません。

しかし、ただ一つ、「物事が論理的であるかどうか」に関してだけは、一筆吠えることもあります。

例を挙げると、消費税に関する輸出免税や派遣社員推奨の問題がソレです。

こんなもの、足し算と引き算ができれば、輸出免税や派遣社員推奨という主張が間違っていることはすぐにわかるはずです。これは政治的主張ではありません。

この宇宙を構成する究極の真理である論理学、そして論理学を基盤に「数」という概念を加えた数学、さらにそれらをより現実的な対象に適用した各種の科学。いかなる政治的主張も、論理が間違っていれば何の意味も持ちません。逆に論理構成さえしっかりしていれば、どの側の政治的主張であっても、必ず頷ける部分はあります。

論理構成というのは、言葉を巧みに操れば、人に間違った印象を与えることができます。つまり、詭弁と呼ばれるもののことです。詭弁を弄してまで政治的主張を行うような人物は、一切信頼できません。

僕は、一般庶民で消費者でもある「ぼく」の立場から、「消費税は無くなって欲しいなぁ」と思います。消費税が無くなると日本経済はどうなるか? そんなスケールの大きい話はわかりません。ただ単に僕個人が「消費税嫌だなぁ」と思うだけの話です。

しかしそこに輸出免税やら派遣社員推奨という間違った前提を持ってきて「消費税を廃止しよう」と主張するような輩は許せません。消費税廃止という希望や結論は僕と同じだとしても、僕には「論理」というもっと大切なことがあるのです。論理を軽視するような政治的主張は、いかなるものであっても、僕にとっては許されざる主張です。

政治を理解して自分の生活に役立てる

そんなわけで、ざっくり言うと僕は政治には無関心です。誰がパンケーキを食おうが、誰が巨大な利権で国と癒着してようが、そんなものは僕がうどんを食うかそばを食うかという切実な悩みに比べたらどうでもいいことです。

でも僕のブログは、消費税やら確定申告やら持続化給付金やら、要するに広い意味で政治に関する話が満載ですよね。

これは別に、僕の考え方が変わったからではありません。相変わらず政治には無関心です(偉そうに言えることではないですが)。

そうじゃなくて、僕は、政治や法律の仕組みを知って、それを日々の生活に役立てようと言っているだけのことです。

税金に文句を言うか言わないかはまた別の次元の話。でも、税金の仕組みを知っておくと、スムーズに確定申告ができるし、節税ができるかもしれないし、いろいろ得なことがあるかもしれない。

税金や法律そのものにモノを申すのは一旦脇に置いておいて、良くも悪くも今施行されているこのシステムを、例え税金を払うのが嫌であっても、ちゃんと理解しておけば自分の生活が豊かになるでしょ。

政治や政策も同じ。良い政策も悪い政策も、とにかく「今はこうだ」というのを正確に理解して、少なくとも自分と自分のまわりの家族や友人が幸せに生きるためにその知識を役立てよう。ただ、それだけのこってす。

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雑記

Posted by 4研DDT