0.9999…=1の話

0.9999…と無限に9が続く数は1か? 1じゃないのか? という話がよくありますが、結論から言うと

$$0.9999\cdots=1$$

です。

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証明?

この種の話はYahoo知恵袋などでよく見かけるのですが、そこで回答者が、以下のように0.9999…=1であることを「証明」していることがあります。

$$S=0.9999\cdots$$ とすると $$10S=9.9999\cdots$$ $$10S-S=9.9999\cdots-0.9999\cdots$$ $$9S=9$$ $$S=1$$

まぁ間違いではないんですが、「9が無限に続く」とはどういうことなのかを説明するために、9が無限に続く数同士の引き算をしているので、わからない人への説明にはなってない気がするんですよね。循環論法とまでは言わないけども。

0.9999…=1であるとわかってる人にとってはこんな証明をするまでもなく1だし、わかってない人にとっては一番肝心なところがモヤモヤしたままになるという感じ。

そもそも0.9999…とは

そもそも0.9999…というのは厳密には、0.9、0.99、0.999、0.9999、…という数列の極限です。

$$0.9999\cdots\stackrel{\mathrm{def}}{=}\lim_{n\to\infty}\sum_{k=1}^{n} 9\cdot 10^{-k}$$

右辺のように書くのが面倒なので、0.9999…と略記しているにすぎません。そして、「…」と出てきた以上はもはやそれは数ではなく、極限であるという認識が重要です。

無限というのは非常に難しい概念なので、それを理路整然と数学の上で扱うために、古来より多くの数学者が苦悩してきました。アミール・D・アクゼル著「『無限』に魅入られた天才数学者たち」によれば、

ギリシャ人が無限という概念を発見したのは、紀元前六世紀から五世紀までのどこかの時点のことだった。無限という概念には、何かしら人を威圧するところがある。それはあまりにも奇妙な概念で、どんな人間の直感も通用しない。そのため、この概念を発見した古代の哲学者や数学者たちは、苦悩し、正気を失い、そのせいで少なくとも一件の殺人事件が起こっている。

「無限」に魅入られた天才数学者たち ISBN: 9784150504427

というなんとも物騒な話になっています。そうした紆余曲折の結果、現代の数学では極限という形で無限を扱うことができるようになりました。

ε-N論法

極限というのもまた、「無限に近づく」と言っただけでは何もモヤモヤを解決していません。古代の天才たちが苦悩し正気を失った果てに辿り着いたのは、次のような定義です。

任意の\(\epsilon>0\)に対し、ある自然数\(N\)が存在し、\(N\)より大きい全ての自然数\(n\)に対して $$|a_n-\alpha|<\epsilon$$ が成り立つとき、\(\alpha\)は\(\{a_n\}\)の極限であるという

いわゆるε-N論法と呼ばれるものです。なんでこんなややこしいのかと思われるかもしれませんが、「無限に近づく」という曖昧な日本語を数学的に厳密に言い表すには、こうするのがベストなんです。

まず「0.9999…」というのが極限の略記であることを理解し、次に極限の定義を理解し、その上でそれが1に等しいことを証明するわけです。証明は省略しますが、極限の定義に従えばおのずと1になることはほぼ自明でしょう。

大切なことなので二度言いますが、「0.9999…」はもはや数ではなく、極限であるということです。

0.9999…の正体

0.9999…=1 であることがわからない人に対して、極限だのε-N論法だのを持ち出しても、もちろんわかってはもらえません。わかってもらうためにどうするか、とか言ってたのに、余計に難しくなってしまいました。ダメだこりゃ。

そもそも小数点以下の「…」は、小学校の2年だか3年だかで割算を習ったときに初登場します。しかし、その年齢の子に無限と極限の話をしたってわかるわけはありません。だから、「小数点以下はずーっと続くんだよ」っていう、数学的には厳密でない教え方をするしかないわけです。

厳密に教えるなら、「…」がある無限小数同士の四則演算が正しく定義されるかどうかとか、いろいろチェックしなければいけません。そういうのは小学校の授業としては適切ではありません。

高校数学で学ぶ極限も、ε-N論法は使いません。極限という概念は登場するけど、「無限に近づく」くらいの説明しか無かったはずです。高校生に極限の厳密な定義を説明するにはまだ早いと、指導要領がそう決めたわけです。

さらにいえば、大学の理系学部でも、このあたりの厳密な議論はすっ飛ばす場合があります。そんな些末な問題よりも、早く運動方程式を理解し、化学反応を理解し、情報工学を理解しなければいけないからです。

かくして、小学校のときに習った小数点以下の「…」は、ほとんどの人にとっては本当の正体が知らされることがないまま、小学校のときの教えがその人にとっての最終の知識となるわけです。

学校教育

大人になって振り返ってみれば、学校教育というのはごまかしの連続です。それも仕方の無い事で、真の学問という見地から厳密な教育を行うというのは、6歳~18歳の小中高生にとっては早すぎるからです。

そんな矛盾を抱えた学校教育にとって、指導要領というものの存在は1つの大きな指針となっていることでしょう。「ここは小学生用にこんな感じでうまくごまかしなさい」と書いてあるのが指導要領だとも言えます。

それぞれ理解力の違う全ての子供に対して、それぞれに合った適切なケアを行うことは現実的にはできません。そこに指導要領という一定の基準があることは、大変意義のあることでしょう。

その一方で、それはあくまで「たくさんの子供に教えるための手法」であるにすぎず、本当の意味での教育や学問とはまた違ったものであるという認識を、教育者の方には常に忘れずに持っていてもらいたいものです。

常に葛藤し悩み続けるという姿勢。教育の現場というのは、そういうことも大事なんじゃないでしょうか。

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雑記

Posted by 4研DDT