批判の批判はやっぱり批判

「人の批判をするのは生産的ではない。そんなのは時間の無駄だ。批判なんかに耳を貸さなくていい。人の批判をするような奴はそれだけで損をしている」

界隈を見てると、こんな言葉を聞いたことは無いでしょうか。然り、確かにその通り。聞く価値も無いような誹謗中傷に近い「批判」も確かにある。でも、この言葉自体が「批判に対する『批判』」になってしまっているということを、忘れてはいけない。

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そもそも批判とは何か

  1. 物事に検討を加えて、判定・評価すること。
  2. 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。
  3. 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。
goo国語辞書

「批判」とは、主に2の意味を指すことが多いでしょう。しかしその幅は広く、相手のためを思う親切心からくる「助言」や「諫言」、良いと思われる方向に客観的に導くための「提案」、ただ単に誤りを指摘したいだけの「非難」、相手の人格をも否定する「誹謗中傷」などなど、いろいろな概念を広い意味で総称したのが「批判」という言葉の中身です。

非難や誹謗中傷などのように負の側面を持つような「批判」は、確かに耳を貸す価値はあまり無いでしょう。しかし、助言や提案のような正の側面を持つ「批判」は、とてもためになるものです。

自分に対して否定的な意見を何もかも全て「負の側面を持つ批判」だと断じてそこから耳を塞ぐようなことをしてしまえば、自分の間違いを正すことも出来ない凝り固まった人間になってしまう危険性があります。

アンチという仮想の敵

「アンチ共が批判してるだけ」

これもよく聞く言葉です。しかし実際は、アンチというのはそれほど多くはありません。例えばここに、早池さん(仮名)という有名人が居たとしましょう。

実際の分布

実際のところ、なんでもかんでも盲目的に信じてしまうファンと、なんでもかんでも誹謗中傷するアンチというのは、上下それぞれ数パーセント程度です。それ以外の大多数の一般人は、冷静に1つ1つ早池さん(仮名)の言動をチェックし、「あれは良いけどあれは悪い(でも、早池さんのことは好きでも嫌いでもない)」と意見をしているにすぎません。

ところが、往々にしてこの早池さん(仮名)のような立場に居る人は、次のような勢力図を暗に提示してきます。

カテゴライズされたアンチ

たったの1つでも否定的なことを言う人は全て「アンチ認定」。大多数の一般人をも、誹謗中傷するだけの本当のアンチと同じところにカテゴライズすることで、巨大な「アンチ」という仮想の敵を作り出します。

確かに、誹謗中傷するだけの本当のアンチの言うことには耳を貸さなくてもいいのですが、真っ当な意見さえもそれと同じ「アンチ」にカテゴライズすることで、否定的な意見を全て「アンチのたわごと」として片付けることができます。

このように、真っ当な意見も全て「悪い奴」だと刷り込んで自分の正当性を主張するというのは、人類の歴史で何千年も前から行われてきた人心掌握術の1つです。

このような人心掌握術は、時には悪政を倒して良い改革をもたらしたり、ビジネスの場でもお互いがwin-winになるように有効に物事を進める場合もあります。だから、このような人の心をコントロールする術が何もかも悪いわけではありませんが、使い方によっては弱者を搾取する武器にもなりかねません。

また、次のような話の展開も、人心掌握術の1つと言えるでしょう。

一般人

中身の無い情報に法外な値段を付けて売るのは良くないと思う。しかも、告知されていたはずのキャッシュバックがいつの間にか値下げされている。二重価格表示じゃないのか?

早池さん

情報を売ることの何が悪いというんだ。有益な情報にはそれなりの値段が付くのは当たり前。情報に金を出さないという考え方が古い。

この「一般人」さんは、「中身の無い情報に法外な値段」「二重価格表示」という部分を指摘している。にもかかわらず早池さんは「情報に値段を付けることは悪くない」というふうに、「情報に値段を付けるという行為全て」にまで主語を広げている

そこまで主語を広げ、相手に対して「情報に値段を付けるという行為全てを批判している」というレッテルを貼り、そうやって作り出した仮想の敵に対して反論をしている。

「情報に値段を付けるという行為全てを批判する」というのは誰の目で見てもおかしい。そんなおかしいことをこの一般人さんは言っているんだ、ならば反論しよう。どうだ、わたしの反論のほうが正しいだろう? つまり、わたしのほうが正しいというわけだ。

うおーうおー、やっぱり早池さんはすごぉい! となるわけですね。こんな風に、言われてもいないところにまで主語を広げて、相手がいかにもおかしいことを言ってるかのように仕立て上げ、そしてその仮想の敵に反論する。見事その反論によって相手を撃破し、ファンからの信頼はますます絶大なものになる。まさに、人心掌握術です。

彼らのすごいところは、そういう人心掌握術のテクニックをたくさんマスターし、何を言えば人がどう動くのかというのを心理学的な観点から勉強し、知り尽くしているということです。

拡大されたアンチというカテゴライズ、拡大された主語に対する反論。そのような物言いが界隈の中を流れたとき、それは確実に、何らかの「テクニック」を使っていると見ていいでしょう。

テクニックを自覚

この界隈のピラミッドの中で一定以上の地位に居る人間は、多少無理筋な拡大解釈や仮想敵への反論というテクニックを、それをテクニックとして認識した上で効果的に使っています。一方、一定より下の搾取される側の人間は、何も深く考えずにただただその反論劇を「すごぉい」と思って見ています。

いずれにしても、搾取する側もされる側も一体となって仮想敵と戦う構図になり、その連帯感は強固なものになるでしょう。

僕は常々言っていますが、モラルや倫理というものを一旦脇に置くとするならば、このような人心掌握術を「ビジネス」に生かすテクニックというのは、それはそれですごいと思います。逆に僕が気になっているのは、搾取される側の無関心さです。被害者に鞭打つようなことになるかもしれませんが、どうしてそこまで搾取されてもなお、鈍感で居られるのかが不思議でなりません。

批判の批判

冒頭で述べた「批判の批判」も、それらのテクニックの一種でしょう。

「人の批判をするのは生産的ではない。そんなのは時間の無駄だ。批判なんかに耳を貸さなくていい。人の批判をするような奴はそれだけで損をしている」

この言説自体が、「批判」という行為をする人に対して、いや、もっと拡大解釈して「我々を(たとえ正論であれ)否定する人」に対して、まさに非生産的な批判を行っている。完全なダブルスタンダードであり、ブーメランです。

正の側面を持つ批判と負の側面を持つ批判があると最初に述べましたが、人というのは弱いもの。どうしても多少負の側面を持つ批判というものを人に対してしてしまいがちです。全くそういう気持ちを持たない素晴らしい聖人のような人も確かに居ますが、そういう聖人はなかなか少ないです。

本当の聖人というのは、こんな「批判の批判」すらしません。そんな境地に立ってみたい気もしますが、僕にはまぁ、到底無理な境地でしょう。ほんと、素晴らしいです。

人間というのは多かれ少なかれ、汚く醜いもの。でも、自分だけは違うと言わんばかりに、批判の批判をする。批判の批判だけは許されるという勝手な免罪符のもとに、「批判をしてはいけない」と自分で自分を戒めている反動からか、「批判の批判」を強烈に実行してしまう。彼らの口から出る「批判の批判」は大抵、皮肉と悪意に満ちています。

「批判をする人はバカだ。時間を無駄にしている。時間というものの大切さをわかっていないのだろうか? もしかして時計の読み方も知らない幼稚園児なのでちゅかねーwwww」

見たことあるでしょう? こういう強烈な「批判の批判」を。聖人からは程遠いゲスな僕の目から見ても、相当エグいです。

また、こんな一幕もありました。

教祖

このチャットを一般人も参加できるように公開チャットにして、どれだけアンチをBANできるか実験をします。掃除人募集です。

信者

掃除人したいです。

信者

私も掃除人やらせてください。

信者

面白そうww

教祖

掃除人同士が速さを競うゲームになってしまって、面白かったww

信者

ほとんどモグラ叩きですねww

「批判の批判」という自分たちの正義を実行することしか見えておらず、どれだけ自分が醜い存在に成り下がっているかに気付いていない。まさに、暴徒化した衆愚です。

こんな歪んだ形で「批判したい」という人間の奥に潜む気持ちを爆発させてしまうくらいなら、多少良くないこととはわかっていても、「あー、これはちょっと言ってやりたいなぁ」という気持ちを抑え込まずに適度に吐き出したほうがいいんじゃないでしょうか。前述のような「真の聖人」でない限りは。

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