1+1=2の証明

この記事の対象読者

この記事は、大学の数学科で数学を学んだことのない小中高生、文系大学生、数学科以外の理系大学生、社会人などを対象にしています。そのような人達にとってもわかりやすくなるよう、敢えて正確さを犠牲にして平易な表現をしているところがあります。ので、数学ガチ勢の方からのツッコミはご容赦くださいまし。

こんな話を聞いたことはないでしょうか?

大学の数学科では、1+1=2の証明をする授業があるらしい。それがめちゃくちゃ難しいらしくて、何十ページもの量になるらしいよ。

何とも興味がそそられる話です。この世の算数・数学ってやつは、言ってみれば1+1=2から始まるようなもの。小学校1年生のときに先生から「1+1は2になります。とにかくそうなんです」と教えられて以来、何の疑いも持たなかったこの事実。

当時は「とにかくそうなる」と言われてはぐらかされましたが、1+1が2になる理由が大学レベルの数学では解き明かされているのだとすれば、これはもしかしたら、宇宙の謎をも解明するきっかけになるかもしれない。いや、大学の数学科は、もうその域に達しているかもしれない…。

今回は、そんな1+1=2の証明にまつわる話を題材にしながら、大学の数学とはこういう考え方をするものだということを紹介していきたいと思います。

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結論から言うと

結論から言うと、大学の数学科で1+1=2の証明を何十ページもかけてするというのは、半分は正しくて、半分は間違っています(というか、正確には証明ではない)。

その証明(正確には証明ではないが)というやつをこれから説明していきますが、最後まで読み終わったとき誰もがきっとこう思うはずです。

フザけんな! そんなのインチキだ!!

大学の数学というのは、ある意味全部インチキなんです。この記事を最後まで読み終えても、結局何も解決せずにもやもやとした気持ちだけが残るかもしれません。でも、「ほうほう、そういう視点もあるのか」と思うことができたアナタは、数学を学ぶ素質があるかもしれません。

自然数とは

自然数というのは誰もが知っていると思います。1とか2とか3とか、100とか114514とか、そういう数のことですね。逆に自然数じゃないのは、3.14とか5/9とか√2とかの、小数とか分数の類です。

1+1=2の証明を学ぶ大学の数学科の授業では、その証明に先立って、まずこの自然数というものを数学的に解明するところから始まります。

1とか2とか3とか、当たり前のようにこの世の中に存在している自然数。でも、なぜそんなものが存在しているのか? 数というのは一体何なのだ? 宇宙の神秘を解明するためには、この当たり前の事実についても向き合わなくてはならない。

自然数とは何か。それについては、実は1891年にイタリアの数学者ジュゼッペ・ペアノが既に解明していました。

ペアノの公理

自然数は次の5条件を満たす。

  1. 自然数\(0\)が存在する
  2. 任意の自然数\(a\)にはその後者(successor)、\({\rm suc}(a)\)が存在する
  3. \(0\)はいかなる自然数の後者でもない
  4. 異なる自然数は異なる後者を持つ。すなわち、\(a\neq b\)ならば\({\rm suc}(a)\neq {\rm suc}(b)\)
  5. \(0\)がある性質を満たし、\(a\)がある性質を満たせば\({\rm suc}(a)\)もその性質を満たすとき、すべての自然数はその性質を満たす

……。えーっと、何言ってんだ、ペアノさんよぉ?

大学の数学の本というのは、大体こういう日本語の言い回しです。ところどころ数式みたいなのがある以外は日本語のはずなんですが、なんというか、頭にスッと入ってこない変な日本語ですよね。

というわけで、もう少し日常の日本語風に言い換えてみます。

ペアノの公理(日常の日本語風)

  1. 0という数は自然数なのですよ
  2. どんな自然数にも必ず、「次の数」というのがあります。0の次は1、1の次は2、58の次は59。
  3. 0より前の自然数はありません(-1は自然数じゃないので、ダメよ)。要するに、0は最初の数です。
  4. 「8の次は9、4の次も9」なんてことはありません。別々の数(この場合、8と4)の「次の数」は、必ず別々の数(この場合、9と5)になりますよ。
  5. (※これだけは少し難しいので、後で話すよ)

……。言ってることはまぁわかるんだけどよぉ、それって当たり前じゃね?

いくら100年以上前の19世紀末とはいえ、当時の有名な数学者ペアノさんが「自然数をついに解明したぞ!」と言って大発表したのが、これ? 3歳の子供でも知ってそうな当たり前のことを言ってるだけなんだけど…。

算数や数学に少し詳しい人なら、0が自然数だと言ってるのもおかしいと感じると思います。学校で習った自然数は確か、1,2,3,…だったはず。なんで0が自然数なのよ、そんなこと書いたらテストで×にされるよ。ペアノさん、あんたダメダメだよ。

大学の数学での考え方

当たり前のことしか言ってねぇし、0も自然数だとかホラ吹くし、何がどうすごいのか全くわからないと思います。でも、19世紀のペアノさんはもちろん、現在の大学の数学科の授業でも、コレを大真面目に言っています。

ペアノさんが言いたかったことは何なのか、それについて説明していきたいと思います。と言っても、本当の大学数学の授業風に説明するとさっきのような変な言い回しの日本語になってしまうので、表現は少し柔らかくします。

まず、0が自然数かどうかという話。確かに、小中高のテストで「0も自然数」って書くと確実に×になります。でも、大学の数学では、0が自然数か自然数じゃないかは、どっちでもいいんですよ。

0が自然数じゃない(普通の学校教育と同じ)派にとってみれば、以下のようになります。

  • 1,2,3,…のことを「自然数」と呼ぶ
  • 0,1,2,3,…のことを、「0または自然数」と呼ぶ

逆に0も自然数である派にとってみれば、以下のようになります。

  • 1,2,3,…のことを「0を除く自然数」と呼ぶ
  • 0,1,2,3,…のことを「自然数」と呼ぶ

要するに、何を何と呼ぶかが変わっただけです。呼び方が変わっても議論の対象(例えば1,2,3,…だとか、0,1,2,3…だとか)は変わらないので、だったら呼びやすいほうで呼べばいいだけだよねって話になります。

小中高の算数や数学では、「これはこう呼びなさい」という教育の方針があります。でも大学の数学では、時と場合や個々の数学者の流儀によって、呼びやすい呼び方をします。何を何と呼ぶかという些細なことよりも、数というものがどういう性質を持っているかを議論することのほうが、より本質的だからです。大学の数学が小中高と違う、顕著な例の一つです。

さて、それはわかった。じゃぁ0も自然数ってことにしとこう。でも、他の話はどうだ? 「0は最初の数ですよー」とか「次の数がありますよー」とかの当たり前のことを書き並べて、一体何がしたいんだ? 特に最初の「0は自然数ですよ」って何やねん。宇宙開闢と同時に神が与えたもうた「数の神秘」を解明しようという話なのに、何を勝手に「ワシが0を自然数と決めた」とかぬかしとんねん。

そう怒りたい気持ちもわかります。

その気持ちを少し抑えて頂いて、先ほどの5つの条件を並べたリストの標題を見てください。「ペアノの公理」と書かれていますよね。

公理というのは言い換えれば、「疑うことなく、証明する必要もなく、提唱者が勝手に指定してよい大前提」のことです。

これが大学数学のやり方です。「なぜそうなるのか」「この世に数が存在する理由は何なのか」という根源的な問いに対して、大学数学は大胆にも、耳を塞ぐのです。そして、「なんか知らんけど、とりあえずこういう大前提をおくよ。はい、俺が今決めましたー。否定意見は禁止ね」というルールを敷くのです。

インチキだろ!! 金返せ!!!

そう、大学数学は、インチキなんです。おっと、でももう少し待ってくれ、まだ返金対応はできない。もう少し話を聞いてくれ…。

公理から定理を証明する道筋

数学という学問は、全ての学問の基礎になります。数が登場しない学問はありません。特に高度な理系学問の場合は、より高度な数学を道具として使いながら議論を発展させていきます。

だから、一番の基礎となっている数学という学問は、間違えることを許されません。

数学の一番始まりの部分を突き詰めていくと、どうしても「数とは何か」という疑問にいきつきます。古代ギリシャの数学者たちも、この根源的な疑問に対して頭を悩ませてきました。宇宙と同時にこの世に存在した数。神が与えた数。それは一体何なのか…。

実際、ギリシャ時代の数学者というのは、同時に哲学者や神学者であったといいます。数の神秘を解明するということは、神の領域を知るということでもあったのです。

しかし近代になると、「そりゃぁ無理だ。わからん。っていうかオカルトじゃん?」という結論に達しました。神を知らなければ数がわからず、数がわからなければ他の学問の基礎と名乗ることもできない。これはマズい。どうしよう…。

そこで数学者は発想の転換をしました。「もしこういう仮定があれば、結論はこうなる」という「証明」という手続き自体には間違いは無い。だから、この「証明」という手続きだけを積み重ねていこう。というか、それこそを「数学」と呼ぼう。最初の仮定についての「なぜ」という疑問さえ捨てれば、それ以降は絶対正しいのだから。

この最初の仮定のことを公理と呼びます。そして、そこから導き出される別の結論のことを定理と呼びます。例えば先ほどのペアノの公理の場合、次の結論は定理です。

定理

  • 一番大きな自然数というものは無い。限りなく大きな自然数が存在する。
  • 自然数は0→1→2→3→…というふうに一直線に並ぶ。枝分かれしたりしない。

この2つの結論は、最初の5条件には書かれていません。でも、最初の5条件を大前提とすれば、このような新しい結論が得られます。こうやって得られた「定理」をどんどん積み重ねて、より複雑なことを証明していくのです。

学校で学ぶ全ての算数や数学は、全てこの「証明」という手続きによって得られた新しい「定理」を積み重ねることで成り立っています。小数も分数もマイナスの数も、方程式も三角関数も微分積分も全て、その積み重ねの結果です。

最初の根源的な(神の領域の)問いにだけ目をつぶれば、それを発展させていく手続き自体は絶対正しいので、もうそれでいいじゃないか。

この宇宙には、何故か知らないが0,1,2,3…という自然数がある。一方、数学の世界では、0,1,2,3…という自然数があると仮定する。勝手に仮定した自然数が、この宇宙の自然数と一致しているかどうかは問わない。でも、まぁ大体間違いなく一致していると誰もが認めるから、数学をこの宇宙に適用してもいいよね。仮に間違っていたとしても、それは数学を適用した側の問題であって、数学自体が間違ってるわけじゃない。

こういう態度を取ることによって、数学は、「この宇宙に何故か存在する『数』の神秘」という永久に答えの出ない問いから解放されて、「もしかしたら最初の時点で間違ってたかもしれない」という憂いを完全に解決して、強固な学問としての絶対の保証を得たのです。

足し算の定義

というわけで、大学数学流のやり方で、自然数というものを知ることができました。1+1=2の話をするためには、ここからさらに足し算というものを考えなくてはいけません。

足し算についてもやはり、「なぜ4+5は9になるのか」みたいなことは考えません。次のような性質を持つ計算を「これが足し算である」と勝手に決めるのです。

足し算とは

足し算「+」は、以下の性質を持つ。

  1. \(n+0=n\)
  2. \(n+{\rm suc}(m)={\rm suc}(n+m)\)

1つ目の式は簡単な話です。どんな数に0を足しても、結果は変わりませんよと言っているだけです。

2つ目の式は少し難しいので、例えば5+3という計算をしたいという状況を考えてみましょう。3という数は「2の次」なので、\(3={\rm suc}(2)\)です。つまり、

$$5+{\rm suc}(2)={\rm suc}(5+2)$$

ということになります。しかし、右辺の「5+2」という足し算のやり方は、前述の「足し算とは」では何も決められていません。だから、もう少し変形していきます。

$${\rm suc}(5+2)={\rm suc}(5+{\rm suc}(1))={\rm suc}({\rm suc}(5+1))$$

これでもまだ計算できません。「5+1」という計算のやり方の取り決めもされていないからです。もう一段階行ってみましょう。

$${\rm suc}({\rm suc}(5+1))={\rm suc}({\rm suc}(5+{\rm suc}(0)))={\rm suc}({\rm suc}({\rm suc}(5+0)))$$

ここでやっと計算可能な式が出てきました。「5+0=5」だと最初に言ったので、

$${\rm suc}({\rm suc}({\rm suc}(5+0)))={\rm suc}({\rm suc}({\rm suc}(5)))$$

となります。これはつまり、「5の次の次の次」の数だということです。そう、8ですね。これで5+3という足し算ができました。

少し難しい式が出てきましたが、言ってることは簡単です。5に3を足すということは「5の次の次の次」というふうに「次」を3回繰り返すことなんですよ、というのがこの式の意味です。

当たり前やんけ!!

そう、当たり前なんです。でも、このように言い換えることによって、足し算というものを「次」という表現だけで表すことができました。これが重要なんです。「足し算とは『足すこと』だ。でも、『足す』って何だ?」と考えてしまうと堂々巡りになってしまいます。そうならないように、「足す」ということよりももっと簡単な「次」という表現を使って、「足す」という難しいことの意味を正確に定めることができたのです。

さあ準備が整いました。1+1=2の証明

左側の1から、1回分だけ「次」の数は何か。1の次は2と名付けていたので、1+1=2。Q.E.D.

どうです? もやもやするでしょうw でも、大学の数学では、これを真面目にやるんですよ。実際には、自然数の一意性だとかwell-definedだとか、もう少し厳密に時間を割いてやるのですが、とにかくこんな感じです。

1の次は2なので、1+1=2。

この当たり前の事実を「へぇ、大学の数学って面白い考え方をするんだね」と思ったアナタ、今すぐ願書を書いて大学へ行きましょう。数学の素質ありますよ。

数学的帰納法

この節は、高校数学を履修し終えた方向けの話題になります。

高校の数学で、数学的帰納法というものを学ぶと思います。「ある命題が、n=0のときに成り立ち、n=kのときに成り立つと仮定した時にn=k+1で成り立つならば、その命題は全てのnについて成り立つ」というやつです。

これが直感的に正しいということは、よくドミノ倒しに例えて説明されます。確かにその通りだし、疑いようのない事実だと思います。

でも、大学の数学では、話が逆なんです。一番最初に説明したペアノの公理の5つ目の条件を思い出してみてください。

ペアノの公理(5つ目の条件)

\(0\)がある性質を満たし、\(a\)がある性質を満たせば\({\rm suc}(a)\)もその性質を満たすとき、すべての自然数はその性質を満たす

これってつまり、数学的帰納法ですよね。でも、これが公理のところに書いてあります。どういうことかと言うと、「数学的帰納法が成り立てば、それは自然数である」という意味です。高校数学で習ったのは「自然数だから数学的帰納法が成り立つ」でしたよね。

話の出発点が逆なんですよ。こういうところが、大学数学の面白いところですね。

1+1=2に興味をそそられる理由

子供の頃、こんなことを思った人も居るかもしれません。

算数なんて嫌いだ! 大体、なんで1+1=2って決められてるんだよ! そんなの誰が決めたんだ? 何年何月何日? 地球が何回まわったとき!?

学年が上がるごとに徐々に難しくなっていく算数や数学。なんでこんな難しい計算をしなくてはいけないのか。教師達は頭ごなしに「1+1=2です。それは絶対です。覚えなさい。でないとテストの点が取れなくて、成績が悪くなって、落ちこぼれになりますよ!」とか言ってきます。

何かこう、権力に押さえつけられたような気がしてきます。学校が何だ! 教師が何だ! 奴らが偉そうにしているのは、この「1+1=2」とかいうやつのせいだ! だから俺は、真っ向から反発してやる!

そんな少年時代を過ごしながらも、なんやかんやと大人に成長した今。あのとき疑問だった「なぜ1+1が2になるのか」という問いに対してついに答えが得られるのだとしたら、そりゃぁ興味もそそられるでしょう。

でも結局、望むような答えは得られませんでした…。

先ほども言ったように、数学というのは、「俺がこう決めた!」から自由に出発してもいいのです。だから、1+1が3になる世界を考えてもいいのです。でもその世界では、じゃあ1+2は3なのか?4なのか?っていう新しい問題に直面します。さらに言えば、その世界ではおそらくまともに引き算ができないでしょう。

そもそもこの宇宙の中で、1+1が3であるという理論を適用できるような場所は滅多にありません。「俺が1+1を3に決めた!」と言うのは、数学という学問の中では自由です。数学はそれを「間違っている」とは言いません。でも、「それって何の意味も無いよね」で終わるだけの話です。

この記事では、大学の数学というものがどんな考え方のもとに成り立ってるかを紹介してきました。子供の頃のあの無邪気な疑問は結局解決されませんでしたが、このように発想を転換して広い見地から算数や数学を見下ろすことができたとき、「1+1=2」という数式が醸し出していた抗いがたい権威というイメージから、少し解放された気分にはなりませんか?

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雑記

Posted by 4研DDT