なぜ0で割ってはいけないのか

たびたび議論になるこの話題。四則演算の中で唯一、0で割ることだけが禁止されています。なぜダメなのか? そんなん誰が決めたんや? 誰かが勝手に決めたルールに縛られて生きるなんてまっぴら御免だ。学校の先生が言うことだけが正しいわけじゃないッッ!

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普通の解釈

「6÷2」と言えば、6の中に2が何個あるかという意味です。それが割り算です。でも、「6÷0」と言うと6の中に0が何個あるかということになり、0は100個足しても1000個足しても1億個足しても6にならないから、0で割ることはできないということにするしかありません。

四則演算とは

足し算、引き算、掛け算、割り算のことを四則演算と呼びます。でもこの四則演算ってやつの正体は何なんでしょう?

数学的に考察するとちゃんとした意味があるのですが、算数教育の現場で「四則演算」と言ったときには、それは「日常生活で一番よく使う4種類の演算」という意味になると思います。

つまり、数学的な構造がどうであれ、初歩の算数で学ぶべきである日常生活でよく使う4種類の演算であるという意味しかありません。要するに、「四則」などと大げさでいかにも根源的な名前が付いていますが、それは必ずしも、数学的な構造の観点から見て根源的であるとはいえないということです。

数学的であることと日常的であることは、全く別の次元の議論です。

やってはいけない演算

確かに、四則演算の中では唯一、0で割ることだけが未定義とされています。しかし、もう少し演算の対象を広げてみると、むしろ未定義であることのほうが多いことがわかります。

実数の範囲に限れば、例えば\((-2)^{0.3}\)のような累乗は許されません。\(\log_{-5}8\)のようなものもダメです。もっとひねくれたことを言うなら、

$$3+\left(\begin{array}{cc}4 & -3 \\ 1 & 0 \end{array}\right)$$

もダメです。数と行列は足せませんからね。

要するに演算とは、2つの値から1つの値を決定する写像\(f(a,b)\)に他ならないわけですが、\(a\)と\(b\)に定義域という制限が付くのは当然です。定義された範囲内で写像の値を、つまり演算の値を定めましょうというのが当然のルールです。

それがたまたま、四則演算の場合は大部分の実数に対して定義されているに過ぎません。0で割れないことが特別かのように思えてしまいますが、この世の中、定義したりしなかったりすることが当たり前のように行われている中で、たまたま1個だけ、「0で割ることは未定義」というのがあっただけの話です。

代数的には

代数的に考えると、「足し算・掛け算」と「引き算・割り算」は本質的に違います。足し算はそのまま加法、掛け算はそのまま乗法ですが、引き算は「加法逆元との加法」であり、割り算は「乗法逆元との乗法」です。

日常生活的な意味で「四則演算」と言うと4つが全て同列の扱いのように思うかもしれませんが、代数的構造を見ると、その4つは決して同列には扱えないことがわかります。

そしてこれが一番重要なところですが、一般に加法と乗法が定義されて、分配法則

$$a(b+c)=ab+ac$$

が成り立つ場合、加法単位元(すなわち0)は乗法逆元を持ちません。つまり、割り算ができません。四則演算を代数的な演算構造から解き明かすと、これが0で割ってはいけない理由であるとも言えます。

実は0で割ることは禁止されていない

数学というのは、何か教育上都合のいいルールだけを、絶対真理であるかのように上から押し付ける学問ではありません。数学とはもっと豊かで、どんな考察をすることも自由な学問です。

実際、0で割った値を便宜上∞(無限大)とすることもありますし、0で割った値を0だと決めれば複雑な数式の表記が簡略化される場合もあります。

そういう場合、「便宜上∞とする」とか「便宜上0とする」という断りを入れれば、0で割ることはがっつり許されています。ただし通常の0で割ってはいけない割り算とは違う解釈になるので、「通常とは異なる」とか「便宜上」という注釈は必要です。注釈によってコミュニケーションが取れさえすれば、何をやってもいいんです、数学ってやつは。

ここに算数教育の難しいところがあって、本当の数学の豊かさという観点から言えば「コミュニケーションさえ取れれば何をやってもいい」んだけども、算数を初めて学ぶ小学生にそんな自己責任的解釈を求めたって逆に難しくなるだけです。だから、「0で割るのは禁止! 先生がダメって言うんだからダメですっ!」と言うしか無いわけですね。

禁止されてはいないが、意味は無い

注釈さえ付ければ0で割ってもいいとは言いましたが、実はそのことにほとんど意味はありません。

「6÷0=0と決めました。ただし普通の割り算とは違う、オレオレ割り算の中の話です」と言うのは自由です。そこで完結していれば別に人様の定義にとやかく言うものではありません。コミュニケーションさえ取れれば定義は自由です。

しかし、そのオレオレ割り算の中では、もはや両辺に同じ数を掛けたら同じになるという保証がありません。いやそれ以前に、掛け算して約分するという操作さえ未定義になってしまいます。ありとあらゆる便利な法則が崩れ、当たり前のように行ってきた他の掛け算や足し算などとの関連性を再定義する必要が出てきます。

そして、それを一度でも試した事がある人は知っています。そんなオレオレ割り算を作ったって、単に便利な法則が全部使えなくなるだけの意味の無い行為であることを。

もし、数学を専門にしている人が集まっている掲示板などで「6÷0=0と決めました。どうですか?」と聞いてみたら、大体こういう答えが返ってくるはずです。「その場合、掛け算はどう定義しますか? 方程式は一意に解けますか?」などなど。

そう、彼らは数学者であるがゆえに、0で割ることは絶対宇宙の真理として禁止されているわけではないことを知っています。何をどのように定義してもよく、何かの定義を出発点として数学的構造を調べることこそが数学という学問であることを知っています。そしてまた、そんな割り算を定義したって、実りのある数学的構造は現れてこず、単に何の意味も無い劣化しただけの結果になることも知っています。

しかし、「ダメ」とは言いません。何の意味も無かったことを知る行為、それこそがまさに数学というものだからです。

なぜ0で割ってはいけないか、という問いの発端

この問いがなぜ発せられるかというと、結局のところは、学校教育という絶対的権威に対する子供たちの反発であったり、先人の数学者を超えてみせるという浅はかな挑戦であったり、まぁとにかく上の人が勝手に決めたことへの反発なわけですね。

その幼い反発心を汲み取った上で、教育者は、どのような「答え」を提示すべきでしょうか。

豊かで自由だけど難しい「数学という学問」の観点から見た答えは、この記事で書いた通りになります。これをそのまま言っても伝わりはしないでしょうけど、教育の現場においてどのような答えを出すかという教育者の悩みに対して、1つの参考になればと思い、このように書き綴った次第です。

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雑記

Posted by 4研DDT