運も実力のうちか?
「運も実力のうち」とか「成功者は運を引き寄せる」とか言いますが、「運」って一体何なんでしょう?
これは僕が1998年頃(当時23歳くらい)にパチスロに関連して書いた記事です。パチスロだけではなくギャンブル全般において、「運」というものとどう付き合っていけば勝てるのかを解説した記事になっています。
人生における「運」も結局は同じことなんだと思います。
以下、1998年当時の記事をほぼ全コピペします。また手抜きですぐへへへ。
運の理論
「今日は運がいい」とか、「私はツイてない」とか、「運も実力のうち」 とかよくいいます。では、運とは一体何なのでしょう。ギャンブルが運に左右されるものである以上、これを理解することは非常に重要であると いえます。あなたのおてもとにサイコロがあると、この章は理解しやすいでしょう (サイコロキャラメルでも可)。
「運という言葉の意味」
うん【運】(名)人の力ではどうしようもない、身の上のなりゆき。 めぐりあわせ。運命。
辞書にはこのように書いてあります。つまり「運」は、人の力ではどうしようもないのです。ギャンブルにおける 「運」も同様です。ギャンブルをするということは、 人の力ではどうしようもないものに身を委ねているわけです。
運がいい状態、悪い状態
サイコロを一個振って行うギャンブルを考えます。出た目の数字が大きいほど点数が高いものとします。いま、サイコロを3回振って、6・5・5と出たとします。これは大変運がいいといえるでしょう。しかし、もし別のところで、出た目の数字が小さいほど点数が高い、同じようなギャンブルをした場合、6・5・5という出目はどうでしょう。ここでは非常に点数が低いことになるので、運が悪いと考えるのが普通でしょう。つまり、立場が違えば運の善し悪しが変化するのです。
運が先か、結果が先か?
「運」というものは果たして存在するのでしょうか。いまさらこんな ことを言うと、「じゃあ、今までの話は何だったんだ」と、お怒りを 喰らいそうですが、次の場合を考えてください。
先ほどのサイコロのギャンブルで、出た目の数字が大きいほど点数が高いという、前者の例を見てみましょう。仮に「運」というものが存在して、しかもその「運」がよかったとします。だから、出目が6・5・5と出たわけです。ところが、サイコロを振った後でギャンブルの主催者(恐そうなお兄さん)が、「やっぱり出た目の数字が小さいほど点数が高いようにしよう。」 と言いました。「今さら何をぬかす!」と言いたいのはやまやまですが、 相手は恐そうなお兄さん。反論はできません。
運が良かったから6・5・5と出たはずなのに、結果は最悪。結局運が悪いことになってしまった。何を間違ったのでしょうか。
このギャンブルの「結果」は、ルールによって 変わります。つまり[出目 → ルール → 結果]という図式になります。この場合に(出目に対する)運などというものはまったく意味を持ちません。むしろ、サイコロを降る前は、「運」は存在していなかったと考えるのが妥当です。
この場合の最終的な状況は、「運が悪い」という状況です。 結果を見てからでしか運の善し悪しはわからない。これが 「運の理論」なのです。
冒頭の問いに答えましょう。運が存在したから、 結果があるのではなくて、結果を以って運と見たのです。
確率の収束
サイコロは、どの目が出る確率も6分の1です。
分かりきったような事ですが、では「確率が6分の1」とはどういう事なのでしょう。あなたは説明できますか?
たとえば「1の目が出る確率が確率が6分の1」であるとは、 「6回中1回の割合で1の目が出る」といいかえられます。ここで、「割合」という言葉に注意してください。「6回中1回は必ず1の目が出る」 という意味ではありません。これはサイコロを何回も振ってみれば すぐわかります。
「6回中1回の割合で1の目が出る」ということは、「60回中10回の割合で1の目が出る」事と同じです。さらには、「6万回中1万回の割合で1の目が出る」ともいえます。
サイコロを6回振って、1の目が4回も出ることは、たまにあると思いますが、さいころを6万回振って、1の目が4万回出ることはありません。 必ず、1万回前後になっているはずです(暇な人はやってみてください)。
このように、たくさんサイコロを振れば振るほど1の目が出る確率は6分の1に近づいていきます。これを「大数の法則」 といいます。また、一定の確率(この場合、6分の1)に近づくことを確率が収束するといいます。
いま、サイコロを6回振って、全部1の目が出たとします。7回目も1の目が出ることなんてあるでしょうか。またその確率はどのくらい でしょうか。実は7回目もやはり6分の1の確率で、1の目が出ます。 「確率」は絶対に以前に起きた事柄に影響を受けません。
もし、6回連続で1の目が出た後で、30回連続で1の目が出なかったら、1の目が出た 割合は36分の6=6分の1なのですが、「確率が収束する」とは、そういう意味ではありません。詳しくは下のカコミを見てください。
パチスロでもこれと同じで、連続で大当たりした(連チャンした)からといって、次は大当たりしにくいというわけではありません。確率が偏った後も、 大当たりは確率どおり起きます。パチスロを打っていて、あまりに確率が偏りすぎて確率論が正しいのかどうかわからなくなったときは、初心に返ってサイコロを6万回振ってください。
確率の収束という概念はギャンブルでは非常に重要です。 サイコロを振って、次に何が出るかはわからないが、ある事柄がどのくらいの割合で起こるかを、前もって知ることができるからです。
もし、一生のうちに サイコロを6回しか振らないのであれば、1の目が出る保証はありませんが、 一生に6万回振れるのであれば、1の目は1万回ぐらい出ることが わかるのです。パチスロもこれと同じです。一生のうちにパチを打つ回数は人それぞれとはいえ、かなりの回数になります。つまり、パチスロにおいて、確率が収束するのです。
運と確率
結局運がいいとか悪いとかいうのは、 確率の偏りによるものであったわけです。ここから先は、「運」という言葉と 「確率」という言葉を同一視します。
運がどのように偏っても一定の結果に近づくことが分かるのならば、その偏りかたを予想するより、近づくべき結果を知ることの方が重要なのです。ギャンブルにおいて、近づくべき 「一定の結果」がマイナスであれば、はじめからそのギャンブルはしなければいいのです。
(※1998年当時の記事からのコピペ、ここまで)
結局、運も実力のうちか?
20年以上も前の記事ですが、今も僕の考え方は変わっていません。
結局、運がいい人というのは、サイコロを振って6をたくさん出せる人のことではなく、はじめから全面6のイカサマサイコロを使っている人のことです。
傍から見るとイカサマサイコロだとわからないので、「あの人は運がいいなぁ」と思うかもしれません。でも、その人が6を出し続けるのにはちゃんとした理由があるのです。普通のサイコロを1面ずつ6に書き換えるために膨大な努力をしたからこそ、6がたくさん出るのです。
その膨大な努力こそが、実力です。
その意味で、「運も実力のうち」というのは、半分間違ってて、半分正しいです。1/6で起こりうる天性の運は人間ごときには操作できませんが、1/6のうちどれが起きても6の目になるようにサイコロを書き換えるのは、間違いなくその人の実力です。
人生においても同じことが言えるでしょう。「成功者は運を引き寄せる」というのはつまり、何が起きても良い方向に持っていけるように、地道な下準備をたくさんしているということです。
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